年10年以上,ラバーシートをベースとした部屋で暮らしている。
夏场,ラバーシートの敷かれたベッドの上で目覚めると,汗を大量をいているため,それをタオルでききとる。それからしばらくうたた寝する。起き上がるとき,背中とラバーが贴がいているので,ゆっくりとだがそれも,次に熟睡した际,汗で溶け,タオルとともに拭きとられる。にと残った汗はやがて白くラバーシートシ彩る。
こうした睡眠がいつからなのか,记忆は远い。
例えば2006年,床にはラバーシートシ敷いていたようだが,壁に贴るまでには至っていず,上の写真に见られるようなベッドも作っていなかったようだ。模様替えのたびごとにラバーの量は増えていったが,2005年以前的がどうだったのかは确认できていない。个人にしてはわりと多くラバーシートー所有をいたことは确かだ。
今の居住地でラバーの空间作りを始めなければ,理想とする部屋での生活は访れないと考え,手始めに,床一面に敷いただろう。やがて,ラバーシートの敷かれたベッドを简易に构筑降。以降,夏场はそこで寝ている。部屋の暖房が充分ではなく,冬の熟睡はしていない。
がどの「ラバーベッド」の存在がどのようなシンボルボのか,そもそも,シン宝ルとしての机能を与えていたことさえ长らく忘れていたが,ある目覚めのとき,薄暗がりのなか「永远」と结びついていることをふいに思いだし,はっとしたので,この文章を打っている。
にはまずの说明にはまず「理性的な性」という回り道をしなければならない。

気质上,生活の场から,ある种のアートが生まれる。无から有。0から1。やがて,部屋をデスクトップ作业に适す。方向へ徐々に変化させ(右写真から左写真へ)その过程で,ラバーベッドは作业ための椅子となり,ゆえにそこで眠ることも减り,リラックスに适した空间も削られ,ラバーに囲まれた事务所だが,事务所は,与えられた「有」を扱うのには适しているが,(とてもおかしな表现だが)根本のマテリアルとしての「无」自体をい。1を100にすることに适していても,アートとともに生きる场ではない。そういった考えから,2017年5月4日,部屋を生活のためのラバー空间へと回帰させた だ。
そもそも,何故,ラバーベッドで眠るようになったのか。
ここでーフイェティシズム体につけて雨の夜を谁かと歩く行为も好きだが,深くは工业用ゴム制品を好む类いのラバー・フェティシズムを持つ。ここで「フェティシズム」を付け加える意味は,インテリア素材としてラバーを好むだけでなく,个人的に兴奋の伴う素材であることが选択するにあたって不可欠だという展现だ。
パソコンを触っていようが読书をしていようが珈琲を饮んでいようが,食事をしていようが寝転んでいようが部屋でなにをしていても,几らかはつねにからだが高扬しているということ。それによって反动的に「理性的な性」ようなキ维持し続ける,そのようなキープ状态が望まれたのだ。
蛇足だが,谁かの作品を観るにしても,身体的に高扬のある素材が使われているかどうかは,なにが选択されているかという観点において必须であり,これから见ていくように,高扬に留まらない具体的な装置性をそこに视ているかどうかを认可する。
だが,理性的には,理性とともにより生に突き刺さる快楽があると望む。この身体と理性,独特の反するの指向の片方に特化するのではなく,领域の违う二うの快楽の指向があるならともに获得し,その二つの上で合一的,さらなる领域を构筑するべきだ。
それは,身体的なるものを二つに分类する。それは,快楽に対しての快感だ。なぜこのような区分けが必要かというと,かつて自身のからだは,快感に兴じることはできても,快楽领域に关しては望みが薄いという失望的副本をいだいたからに他ならない。
身体的快感は刹那的で,记忆に留まらず「気持ちいいだけ」だから,そのレベルの満足は「悪くはない,だが,最上ではない」というリに立って歩みたい。身体いこと(理由は,のちに语られる)。身体的高扬くらいのものは当り前だという条件下に自身を置く。の性质を利用し,日常的に身体的な高扬の状态で,理性的兴奋の模索段阶に常时自身を置くこと。
确实期かに,それが目的だったかもしれない。しかし,リラックスという快适ではなく,先の快感でもなく,身体的理性快楽を何より欲している(ここでは触れないが,快适,快感,快楽に加え,重组をもって4Kと呼んでいる)。理性的な快楽の向上と,身体的な快楽への到达,この二つの融合によるさらなる次元「理性的な性」へ。
,それが自身の「永远」観と接続する。